日経電子版オンラインセミナー
学びと変革のループ
~育つ人、育てる組織~
いま注目されるリスキリングと人事DXについて解説
伊藤かつら氏
人事院 人事官
人手不足が深刻化する日本において、人事の果たす役割が高まっている。個々人のパフォーマンスを引き出し、経営戦略に組み込んでいくには、人事関連データの収集・分析が不可欠である。こうしたデータドリブン人事戦略の必要性については多くの企業が認識するところだが、最も重要なのは、実際の組織改革にどうつなげていくかにある、と人事院人事官の伊藤かつら氏は語る。
※本記事は、2023年4月25日に日本経済新聞社 イベント・企画ユニット主催で行われた「日経電子版オンラインセミナー」のイベントレポートです。
人材は「コスト」ではなく「資本」
昨年2022年の春、岸田内閣により人事院人事官に任命された伊藤氏は、公務組織が国民本位の活力のある組織であり続けるために、人事院の組織改革を推進している。その実現には、人材の継続的な採用と戦略的な育成が必要であり、同時に生き生きと働き続けられる職場環境や処遇が必要となる。公務組織全体のパフォーマンスを高め、魅力的な人材の興味を引き付けることが、能力のある多様な人材の獲得につながる。伊藤氏によれば、「これは公務組織に限った話ではなく、組織が人で成り立っている以上、民間企業においても本質は変わりません」ということになる。
こうしたエコシステムの実現のためには、人材は「コスト」ではなく「資本」であるという考え方に企業がシフトチェンジしなければならない。「人に投資することで従業員の知識や能力を伸ばし、外部環境の変化に対応しながら、持続的な企業価値の向上につながる」と伊藤氏はいう。そのためのキーワードとなるのが「リスキリング」だ。
人的資本経営への変革のハードル
リスキリングとは、新しい職業に就くために、あるいは今の職業で必要とされているスキルの大幅な変更に適応するために、必要なスキルを獲得する(させる)こと。昨秋、岸田首相が所信表明でリスキリング支援などに5年で1兆円を投資すると述べて話題になったが、2020年のダボス会議(世界経済フォーラム年次総会)ではすでに「リスキリング革命」が挙げられており、日本でも2021年に経済産業省がリスキリングについて言及している。リスキリングを積極的に支援することで、より価値の高い仕事への労働移動性を促し、国の生産性を上げて成長戦略につなげることが期待されている。
その流れの一つとして、経済産業省は「人的資本経営の実現に向けた検討会」を開き、「人材版伊藤レポート2.0」を発表した。人的資本経営へと向かう変革の方向性として、以下の6項目が挙げられている。
伊藤氏は「人事部は人材を管理するだけの部署ではなく、経営戦略部門にならなければならない点」が中でも重要であり、かつ「日本企業にとって難しいのは『相互依存』と『囲い込み型』の変革である」と述べている。日本ではこれまで終身雇用が当然だったため、組織と従業員、あるいは従業員と経営側が相互依存関係に陥っていた。まずはこの関係を変えることで、お互いに甘えのない生き生きと働ける環境がつくられ、組織を活性化させる。人材を囲い込むのではなく、組織と個人が選び・選ばれる関係になることが重要だという。
企業と従業員の相互依存がリスキリングの背景にある
続いて伊藤氏は下記のデータを紹介した。日本では、企業と従業員が相互依存の関係になりがちな一方で、「現勤務先で働き続けたいと思っている人の割合はアジアの中で最下位。従業員エンゲージメントの国際比較においても、日本は世界の最低レベルにある」と語る。
一方で「転職意向のある人の割合は約25%しかなく、独立・起業志向のある人も約16%に過ぎない。また、社外学習・自己啓発を行っていない人の割合も日本は突出している」と伊藤氏は話した後、「ここから読み取れるのは、組織と従業員の依存関係の強さです」と指摘した。自分の現状には不満だが、自らは学ばず、キャリアを広げようともせず、現状を変えようとしない人が多いことを示しているという。
「もちろん、企業側にも問題はあります」と伊藤氏は続ける。OJT以外で人材投資をしている割合を見ると、日本は20年前から世界最低レベルである。多くの日本企業がいまだに高度経済成長の成功体験から抜け出せておらず、社員教育の中心は先輩の背中であり、その結果、自社の業務のエキスパートは生み出せても、グローバルな世界で渡り合える人材を輩出できないでいる。これらの積み重ねが産業構造の変革の遅れを招き、海外との競争力の低下を招いた。こうした状況が、現在リスキリングが注目されている背景にあるといい、伊藤氏は現在、「必要なスキルの大幅な変化が起きている」と見ている。
リスキリングがもたらす効果
組織論的にいえば、習得したスキルの半減期は5年といわれている。かつては組織に長くいればそれだけ経験値が上がっていくと考えられていたが、実は5年も経てば半分のスキルは役に立たなくなるのが現実なのである。未来学者のアルビン・トフラーが「21世紀において無教養な人とは、読み書きができない人ではなく、ラーニング(学ぶこと)・アンラーニング(学習棄却)・リラーニング(学び直し)ができない人のことを指す」と指摘したように、従業員は常に学び続けなければならない。
それでは、何のためのリスキリングなのか。リスキリングの効果としては次のようなものが挙げられるだろう。 一つ目は業務の効率化と生産性の向上で、「特にデジタルの分野で高い効果が期待できます」と伊藤氏は語る。そして、業務が効率化されることで、アイデアの創出やイノベーションにもつながる。
二つ目は、採用コストの削減だ。たとえば、バックオフィスやナレッジワーカーといわれる人たちにデジタルスキルをリスキリングしてもらえば、新たに外部から人材を大量に雇用する必要がなくなる。人材の流動性も大切だが経験値が生きる分野もある。
三つ目はリスキリングによって企業文化の継承とエンゲージメントの強化が図られることだ。リスキリングは、自社の立ち位置を見直すきっかけにもなる。また、個人の成長に投資する組織が好印象を持たれることは言うまでもない。
人事院の組織改革の例
伊藤氏が人事院で行っている組織改革の一つが、GSS(Government Solution Service)によるDXの推進である。第一段階として職員のデジタルリテラシーの向上、第二段階としてGSSのフル活用による業務改善を図った。そして、最終的に新しい働き方に適応したオフィスの実現を目指して改革を進めている。これは、組織のカルチャーを変える大改革である。その際に伊藤氏が活用しているのが、ADKARモデルといわれるチェンジマネジメントのフレームワークだ。タスクごとに達成すべき成果としてAwareness(認識)、Desire(願望)、Knowledge(知識)、Ability(能力)、Reinforce(強化)の5つを当てはめていく方法だ。
また、職員にとっては大きな働き方の変化であることからコミュニケーションを重視し、トップダウンとボトムアップを組み合わせてGSSを組織に浸透させていった。特にボトムアップの部分では「人事院DXアンバサダー」を募り、先行トレーニングを受けた彼らが各課・各地方のトレーナー役・アドバイス役となって周知を図った。
さらに役所という職業柄、聞くだけ・体験するだけではなく、文字で理解することになじんでいると考え、最後の一押しとして利用ルールやガイドラインを文章で示した。こうした人事院での組織改革の経験から伊藤氏は、「従業員の心に火をつけて動かすには、組織のDNAによって工夫が必要だ」と指摘する。
こうした結果、現在の人事院では全員がクラウドに移行し、職員の多くが自らローコードのアプリを作成できるようになるまでに至った。また、情報の可視化により、どこで誰が何をしているかがお互いに把握できるようになり、組織カルチャーにも変化が見られているという。
大企業で広がるリスキリングへの取り組み
伊藤氏は多くのCHRO(最高人事責任者)と接するなかで、リスキリングへの取り組みが今、大企業を中心に広がっていることを実感しているという。以下のような日本を代表する大企業が、企業をあげてリスキリングに取り組んでいる。たとえば、NECでは知識や技術を習得するだけでなく、行動様式を変えなければならないというところにまで踏み込んでいるという。そうした企業では経営戦略と人材戦略を連携させて、あらゆる層の従業員の成長を促す取り組みを行っているが、「あらゆる層とは、現場だけに限りません」と伊藤氏はいい、「経営者自身も、新たなマネジメントスキルの学びに積極的です」と語る。
一方で、政府も経済産業省・文部科学省・厚生労働省・IPAなどの専門機構が中心となって、DXリテラシー標準を策定している。どのようなスキルが必要なのかを具体的に示していて、たとえば、オフィスワーカーにとって必要なマインド・スタンスの行動変容は何かといったところまで網羅している。また、「学びDX」という学びのプラットフォームを用意し、DXリテラシー標準の普及に努めている。
高いパフォーマンスを生む魅力ある組織への変革
冒頭でふれたとおり、今後、労働人口は次第に減少していく。そうした時代に対応するために、企業は人的資本を最大限に生かす組織への変革が要求される。新卒・経験者を含めて優れた人材の採用だけでなく、育成の重要性を伊藤氏は繰り返し述べる。そのためにも、スキリングやリスキリングのほか、フィードバックやコーチングスキルの向上も図る必要があるだろう。
これらがうまく循環することで、高いパフォーマンスを生む魅力のある組織が築かれる。そのベースになるのがデータやシステム、仕組みである。加えて、「どうやってやる気にさせるかもポイントとなります」と伊藤氏は続ける。その点において採用・育成だけでなく、納得感のある配置・登用、働きやすい職場環境づくりなど包括的に取り組まなければならない。
伊藤氏は人事院の組織改革を通じて、「自らの学ぶ力や成長意欲を信じる“グロース・マインドセット”の考え方の素晴らしさ実感した」と語っている。そして「グロース・マインドには、トップのコミットメントが非常に重要である」とも述べている。トップがリスキリングやDXに積極的に取り組むことが、日本企業の競争力の回復、ひいては国の成長戦略につながっていくに違いない。