人材の流出は、いつの時代も経営者と人事部門にとって頭の痛い問題です。とりわけ現在は、労働市場は超売り手市場が続いています。人材はよりよい職場を求めて移動しがちで、離職率を下げようとしても、なかなか思うようにいきません。好況による一過性のものではなく、労働人口の減少という国家的問題が要因。「もはや、あきらめるしかない」。そう弱音をはく経営者・人事スタッフもいます。でも、よく周囲を見回してください。離職率が低く、人材が定着している会社は確実に存在します。給料が高い? 社長に人望がある? いえいえ。実は「離職率を下げる科学的手法を導入している」のです。どんな手法なのでしょうか。
若手人材の退社が連鎖している
「また社長に怒られるな…」。B人事部長がため息をついています。先ほど、若手の営業スタッフから「退職します」と告げられたからです。全国の大都市に拠点を広げ、法人向け英会話研修サービスを提供しているベンチャー企業。社員数は600人を超えています。各拠点で人材の入れ替わりは日常的にありますが、B人事部長の直轄下にある本部のメンバーの退職となると話は別です。
全国から見どころのある若手を集め、社長自ら手塩にかけて育成。独自の講師育成マニュアルの作成や、他社にマネできない新カリキュラムの開発、そして退職を告げたスタッフが属していた「大手企業からの受注を目指すプロジェクト」など、戦略的な業務を担当しているのが本部のメンバーだからです。またイチから育成のし直しとなると、大変な手間ひまがかけなくてはなりません。といって、いまの売り手優位の転職市場では、即戦力の中途採用で補充するのも困難です。
今年に入って、本部メンバーの退職はこれで4人目。「なにが不満だっていうんだ」。つい、グチを言ってしまうB人事部長。ベンチャー企業のなかでは、それなりに高い給料を出しているつもりです。本部スタッフに抜てきされ、若くして経営者の直下で戦略的な業務に携われるのは、大きなやりがいになっているはずではないのか。「経費節減のため、古いビルにオフィスを構えているのがいけないのか…?」。そんなことも思ってみますが、それが決定的な理由ではないことは、ベテランであるB人事部長は十分わかっています。
科学的手法で退職リスクを察知
そんなB人事部長には、気になっていることがあります。法人向けIT研修サービスを展開するベンチャー企業です。英語とIT、分野が違うとはいえ、同じ法人向け研修サービスを手がけ、拠点数や従業員数も似たり寄ったり。設立も同じ年。「ライバル」という意識があります。このライバル企業の離職率は「非常に低い」という情報を得たのです。給料や福利厚生などの待遇でそんなに差はないはずだが…?
実は、今年に入って2人目の本部メンバー退職者が、このライバル企業に転職しています。B人事部長はこのメンバーの新入社員時代、なんども悩み相談に乗ったことがあり、退職後も関係は良好。営業スタッフの退職願いを受け取った日の夜、ライバル企業への転職者を「メシでも食いに行こうか」と誘い、話を聞いてみたのです。
「ええ、いまの会社の離職率は低いですよ。今年に入っての退職者数はゼロだそうですから」。ライバル会社に転職した元メンバーの話を聞き、B人事部長は驚いてしまいました。「ウチと同じで、社員数は600名ぐらいだろう? それで、ひとりも辞めていないっていうのか?」「そうなんですよ」「どんな魔法を使っているんだ?」「ウチ…あ、いや、もう転職したんだ。“御社”がお客様に対してやっているようなことを、社内向けにやっているんですよ」「…詳しく教えてくれ」。
「お客様に対してやっていること」とは、解約率の低減のための施策のこと。コールセンターへの日常的な問い合わせや、解約の申し込み手続きの際に記入してもらう解約の理由などのデータを解析。「解約を申し入れてきたお客様は、その1~6ヵ月前に、○○に関する問い合わせをしてきているケースが多い」といった傾向を抽出します。そこで、「『○○に関する問い合わせ』をしてきたお客様へスタッフが訪問し、その後半年間ぐらい密にコミュニケーションをはかる」といった施策が打てます。それによって解約率を大幅に引き下げているのです。
IT研修を手がけるライバル企業は、こうした顧客向けの手法を、自社の社員向けに応用していました。具体的には、業務日報や上長との個別面談の記録を分析。退職に至った社員は、在籍し続けている社員と比べて、「業務量が多い」や「優先付けが難しい」という発言が多いという傾向をつかんだ。そうした発言の多い社員の直属の上長に、「とくに密にコミュニケーションをはかるように」と支持しているそうです。
さらに、「相談しにくい」という発言をしている社員は、その3ヵ月後に退職する可能性が最も高いことも判明。その発言が多く出た社員には、「直属の上長とは異なるメンター的な先輩を割り当て、3ヵ月ほどひんぱんにコミュニケーションをはかる」といった施策を打っているのです。
企業の持続可能性を高める方法
ライバル企業が実行している施策を聞いて、B人事部長は目からウロコが落ちる想いでした。「考えてみれば、マーケティングの分野では『顧客の離脱防止』のための手法が開発され、どんどん導入されている。それを『社員の離脱防止』に応用するのは、当然のことだな」。ライバル企業はIT研修サービスを提供する会社。最先端ITに感度が高く、「社員の離脱防止」のための科学的手法を駆使できるITツール、タレントマネジメントを2年前に導入したのです。そこで蓄積したデータを今年に入ってからフル活用することで、退職を抑えることに成功しているのです。
労働人口の減少により、人材の新規採用はますます困難になっていきます。既存社員の離職を防ぎ、定着率を上げていかなければ、将来にわたって企業を持続させることはできません。タレントマネジメントは離職率低下の切り札になりえるツールです。
「さっそく、社長にタレントマネジメント導入を具申してみるか」。営業スタッフ退職の衝撃から立ち直り、B人事部長の表情には明るさが戻ってきていました。